2016.5.1. 小林華弥子

地震に揺れた由布院が、いま取り戻すべきは…。


閑散とした湯の坪街道、人気のない金鱗湖周辺…。
地震発生から10日あまり。マスコミはこぞって風評被害を報じ、
それを危惧する観光商業店舗達は「ゆふいんは元気です、営業しています、頑張ります!」と
声高に宣伝をしている。…なんか、微かな違和感があった。

地震被害を心配しに、旧くからの由布院の常連さんが顔を見に来てくれた。
そして金鱗湖脇の木陰でポツリと話された。
「由布院に来て、久しぶりにこの静けさを思い出しました。
 由布院はやっぱりこの静けさなんですよね。」
ハッとした。
(そうだった、私たちは大切なものを忘れかけていたのではないだろうか。)

確かに、お客さんがパッタリ来なくなった町は惨めだ。
寂しさと侘しさと先々の見通しのたたない不安感がいっぱい。
そして「いつお客さんは戻って来てくれるのだろう、1ヶ月後か、半年後か、1年先なのか…。
それまで商売は、従業員の給料は、家族はどうやって食べていけるのか」と考え始めると、
居ても立っても居られなくなる。
実際に再開のメドが立たずに休業を余儀なくされ、従業員に解雇を言い渡した宿や店舗もある。
お客さんが来てくれなければ困る、それは確かだ。


【元の由布院に戻りたい…?】
「一日も早く、元の由布院に戻って欲しい」みな、そう願っている。
が、しかし、「元の由布院」って、どんな由布院だ?
震災前のここ2、3年の由布院を思い出してみると、
観光立国の御旗のもと訪日外国人誘致に血道を上げるインバウンドに沸き立ち、
中国バブルも相まって、由布院盆地には受け容れきれないほどのお客さんで溢れかえり、
毎日駅前に特急列車に乗るために入場待ちをする観光客が列をなしていた。
湯の坪街道では日本語が通じない、外国人観光客のマナーが悪い、
団体大型バスが違法駐車をして交通渋滞が起きる、
日帰り通過型の客はお金を落とさず、ゴミと し尿ばかり残して行く…混乱と喧噪の日々。

もともと由布院は温泉地でありながら1月、2月はオフシーズンだった。
お正月がすぎるとお客さんはめっきり少なくなり、
モノトーンの雪景色の盆地には湯煙が静かに漂い、
町の人々が静かに送る日常の生活時間が流れていた。
そんな「オフのゆふいん」が、ここ近年はなくなってしまっていたのだ。

果たしてあの喧噪と混乱にあふれた状況が本当に望ましかったのかどうか…。


【41年前も、大地震から始まったゆふいんのまちづくり】
そもそも、なぜこんなにも多くのお客様が由布院という、
何のヘンテツも無い田舎の村にやってくるのか。
それは、由布院が40年以上前から独自に歩み続けて来た
町づくりの歴史と精神があるからだ。

 由布院のいわゆる今日で言う観光まちづくりが始まったとされる40数年前、
 ニクソンのドルショック、円切り上げで、日本中が騒いだのが昭和46年(1971年)
 その不安な匂いをおさえこむように、颯爽と登場するのが田中内閣の列島改造論だ。
 翌47年、2月に連合赤軍が浅間山荘に立て籠もり、続いて米・中が国交を再開し、
 5月にはようやく沖縄が日本に返ってくる。
 万国博覧会から全国総合開発計画へと、世の中、「進歩と調和」を合言葉にしながら、
 「開発」に向かって雪崩れていた。開発という言葉は薔薇の匂いがした。(中略)
 そんなときにゆふいん盆地の観光業者たちが、なぜ自然愛護や町の自立という
 反時代的な運動を始めたのか?
 そこに「たすきがけの由布院観光」の土性骨が埋まっている。

高度経済成長を背景に開発に沸き立つ日本列島の中で、
由布院はひとり静かにそんな世の中の流れに背を向けていた。
「由布院の自然を守る会」が発足し、猪瀬戸のゴルフ場問題、暴力団抵抗運動、
「明日の由布院を考える会」が発足し、大型別荘開発をめぐって自然環境保護条例運動を起こし、
サファリパーク問題をめぐって町民運動を展開し、これを阻止する。

そこに起こったのが大分県中部大地震だった。
1975年(昭和50年)4月21日2時35分、
大分県湯布院町・庄内町を震源とする内陸直下型地震。
マグニチュード6.4、震度4を記録した。
しかし、今回の地震と同じく幸いにも由布院盆地内では建物全壊は無く、
半壊が24戸、旅館やホテルも内部被害は出たものの、営業には大きな支障はなかった。
しかし、由布院近くの山下湖畔のレークサイドホテルが一部倒壊した写真が
新聞一面に大きく掲載されたことにより、
「由布院は甚大な被害にあった」「被害総額役50億円」といった報道がされ、
「由布院は観光どころではない」というイメージが先行、今で言う風評被害を被ったのだ。

 地震で決壊した横断道路は、8月まで通行不能という。
 テレビや新聞は、写真入りの大見出しで地震の惨状を写し、全国に伝えた。
 予約の取消が殺到し、由布院中が不安におののいた。
 どうする、由布院観光?
 由布院壊滅説を引き繰り返し、明るい噂で塗り潰すために「由布院健在説」を流そう
 というのがメインリーダーたちの作戦であった。
 「由布院盆地は大丈夫だ。地震でやられてはいない。
 静かな、心のふるさとはいま正に健全なのだ」。
 それを全国に流す。それも急いで大至急。

…そこから始まったのが、いわゆる「つるべ撃ちイベント作戦」と言われる
一連の由布院観光イベントの始まりだ。
対馬に行って馬を買って来て辻馬車を走らせ、
第1回ゆふいん音楽祭(星空の下コンサート)、第1回牛喰い絶叫大会を開催。
翌1976年(昭和51年)には、全国町づくりシンポジウム「この町に子供は残るか?」開催、
第1回湯布院映画祭も始まった。
これらのユニークなイベントで由布院の町づくりのイメージはつくられ、
「田舎道をのんびりと虫の声を聴きながら散歩ができる所」
「文化の薫りが漂う静かな癒しの町」…これでお客様が増え続けたのだ。


【「宣伝をするな、表現をしろ」】
と、ここまではムカシの由布院まちづくり物語の回想。
しかし、ここで注意しておかなければならないのは、
地震の風評被害に揺れた由布院が、
ふたたび「由布院健在説」を流すためにやったイベントの狙いどころだ。
「由布院は元気です、頑張ってます、来てください、イラッシャイ,イラッシャイ」では、なかったのだ。

 そしてその頃、由布院観光衆が打ち出した路線が〈生活観光地〉である。
 「観光の魅力は、特別に観光用に造られるべきではない。
 その土地の暮らし、そのものが観光の中味なのだ。
 村の生活が豊かで魅力あるものでなくて、なんその土地に魅力があろうか。」

そこから現在まで、由布院観光は「生活型観光地」を標語に
「最も住み良い町こそ、最も優れた観光地である」を理念に掲げて来た。
お客さんを誘致するためではなく、自分たちの暮らしを心豊かにすること。
そのために、音楽祭も、映画祭も、そして絶叫大会も開かれて来たのだ。
この町で過ごす自然豊かな暮らしの中に、美しい音楽や映画、質の高い文化、
滋味あふれる美味しい食べ物、のんびりとした時間、そして静けさ…
そういったものを大切にした暮らし、そういう暮らしの見える町、
それが生活型観光地、由布院なのだ。
つまり、誰でも彼でもイラッシャイと観光客を呼び込むためにイベントをしかけたのではなく、
この町で送る自分たちの暮らしを表現してきたのだ。

由布院の観光まちづくりのリーダーが、言った。「宣伝をするな、表現をしろ」と。
イラッシャイ、イラッシャイは宣伝だ。
そうではなく、自分たちの町はこんな町なんです、この町で自分たちはこんな暮らしをしているんです、
という事を「表現する」のだ。
それに憧れてこそ、お客さん達は来てくれる。


【「緑」と「空間」と、そして「静けさ」】
この生活型観光地を打ち上げた背景には、当時、由布院の若者3人衆がヨーロッパのドイツに行って、
バーデン・ヴァイラーの町会議員のグラテヴォル氏から言われた衝撃的な一言があった。

 「その町にとって最も大切なものは、『緑』と、『空間』と、そして『静けさ』である。
 その大切なものを創り、育て、守るためにきみはどれだけの努力をしているか?」
 「きみは?」「きみは?」グラテヴォルさんは私たち3人を一人ずつ指さして、
 詰問するようにそう言った。
 それで私たちは真っ赤になってしまった。
 …私たちはドイツの町で受けたこの衝撃を、なんとか自分たちの町にも伝えたい、
 と思うたんです。」

そして、あれから41年。またふたたびこの町を大きな地震が襲った。
そしてあの時と同じ様に、また風評被害が流れ、お客さんの足がとまった。
町の観光業関係者の不安は高まり、由布院元気説を再び発信しようと動き始めている。


たしかに、お客さんには早く戻って来て欲しい。
しかし、どんなお客さんに、どの様に戻って来て欲しいのか、
そしてお客さんにはどんな風に、この町でどんな時間を過ごしてもらいたいのか、
そのために我々はどうお客さんを迎えるのか。
その事を改めて考え直す必要があるのではないか。
やみくもに「宣伝」を繰り返し、観光客を呼び込もうとするのではなく、
今回の震災をきっかけに、もう一度、自分たちの足もとの暮らしを見つめ直し、
目指すべき町の姿を「表現」し直す時期なのだと思う。

それこそが、由布院まちづくりの本当の復興なのではないだろうか。


                                 了

             引用:『たすきがけの湯布院』(中谷健太郎著)